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世紀の大誤報『光文事件』はなぜ起きたのか!?

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1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御した際、「大正」の次の元号をめぐって起きた『光文事件(こうぶん)事件』は後に世紀の大誤報とまで言われるようになったのですが!?

この事件について知らない人もいると思うので、この記事ではその概要&事件が起きた理由(説)をテンポ良く紹介していきますよ〜(ΦωΦ)フフフ・・

東京日日新聞が大きく伝えた『光文』

間違った年号をすっぱ抜いた東京日日新聞(現在の毎日新聞)
引用:X

大正15年(1926年)12月25日、静養先の葉山御用邸にて大正天皇は47歳という若さで崩御された際、宮内省からこの報せを受けた各新聞社の記者たちは天皇崩御だけではなく、次の元号をすっぱ抜くことに熱心だったんです(⊙_⊙')

そしてこの日、光文事件の発端となる出来事が起きる...

それは現在の毎日新聞で当時の東京日日新聞がその日の朝刊&号外で

と大きく伝えたことに慌てた読売新聞や満朝報もこぞって朝刊で『新元号は”光文”』報じたため、多くの国民は新元号が光文であると完全に信じていたのです。

が!!!

同日午前11時頃に宮内省が発表したのはもちろん

という元号だったんです。

東京日日新聞は大炎上した!?

『東京日日新聞』(大正15年12月25日発行)の号外
引用:note

東京日日新聞は第2号外と夕刊で

に訂正しますが時すでに遅しで、皇室報道にて大失態をやらかした東京日日新聞は今で言うところの大炎上状態に陥ってしまうんです(*´Д`*)

本山彦一
引用:Wikipedia

結局、本山彦一社長が辞任表明し、編集局主幹の城戸元亮(きど もとすけ)が一切の職を辞することで、なんとか沈静化に至ったのです。

『光文事件』はなぜ起きたのか?

東京日日新聞社の社屋(1933年)
引用:Wikipedia

ではなぜ世紀の大誤報『光文事件』は起きてしまったのか?

ココが気になりますよね(ΦωΦ)フフフ・・

そもそもですが!?

『”光文”は次の元号の最終候補にすら残っていなかった』

というのがあります。

大正天皇が体調を崩された頃より、宮内省と内閣、密院(すうみついん・・・枢密顧問により組織される天皇の諮詢機関(しじゅん))が、それぞれ新元号の考案を開始していたんですよ。

当時の記録によれば、内閣の案に『光文』の文字はあったものの、元号作成の中心は宮内省だったため『光文』は早々に候補から外れ、最終的には宮内省考案の

元号最終候補
  • 昭和
  • 元化
  • 同和
 
 

の3つが残ったとのことですが、こうした経緯の中でなぜか『光文』の情報だけが漏洩したことで東京日日新聞が大々的に流してしまったのではないか?

というのが1つ目の説です(⊙_⊙')

2つ目の説

2つ目の説ですが、昭和31年(1956年)にNHKの『私の秘密』に出演した中島利一郎氏

と告白しています(⊙_⊙')

1926年当時、密院顧官・黒田長成氏の要請で中島氏も元号選定に加わっており、漢詩の一節から『光文』を考案し、最終選定案に決まっていたものの、東京日日新聞のすっぱ抜きによって、直前に『昭和』に差し替えられたことを明かしているんですが!?

現在残っている当時の記録に基づいた第一説は急な変更を隠すために作られた

であるというんです(*´Д`*)

東京日日新聞の後身である毎日新聞は『毎日新聞100年史』の中で、東京日日新聞時代の『光文』の速報によって元号が『昭和』になったことを、ほぼ事実として扱っており、早い話が

と言いたいわけですw

毎日新聞は光文の二の舞にならないように慎重になった!?

1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇
引用:Wikipedia

ちなみにですが光文事件から約63年後の昭和天皇崩御の際、新元号の発表30分前には『平成』であることが確かな情報として伝わっていたのですが、半世紀以上前に起きた光文事件の二の舞にならないようにしたのか、毎日新聞は事前の号外を出そうとはしなかったんです。

しか〜し、当時の官房長官・小渕恵三が新元号『平成』を発表後、毎日新聞はどこよりも早く速報を伝えたことで光文事件の雪辱を果たすことができたのです〆(・∀・@)

 
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