日露戦争当時、数々の工作活動を行いロシア国内を混乱させた男が存在しました(⊙_⊙')
その男の名は明石元二郎。
日本を遥かに上回る国力を有していたロシアが敗北した要因に、この人物の存在が大きく関係しているのです。
果たして彼はどんな活動をし、ロシアにどのような影響を与えたのか!?
さっそく見ていくことにしましょう_φ( ̄ー ̄ )
明石元二郎はロシア監視のために派遣された
明石元二郎
引用:Wikipedia
1864年(元治元年)も福岡藩士の次男として誕生した明石元二郎は13歳の時に日本陸軍幼年学校に入学し、その後、士官学校、陸軍大学校と進学して、大学校卒業後に陸軍少尉に就任します(⊙_⊙')
1894年、明石はドイツに留学して、その後はフランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)やフィリピンに赴いて大使に就任するなど、世界各国を飛び回り、1902年に、後に内閣総理大臣になる田中義一の後任で、ロシア帝国公使館付陸軍武官に就任。
当時の日本国内では『ロシアが近いうちに南下政策を実行する』というのがしきりに議論されていたこともあり、明石は危険な存在であるロシアの動向を監視する任務が言い渡されたのです。
明石の工作活動がロシア国内を混乱に陥れる!
ニコライ2世
引用:Wikipedia
ロシア公使館在籍時に明石が命じられた任務は『ロシア国内の情報を探る』ことと情勢を混乱させてロシアの国力を削ることでした。
当時のロシアはロマノフ王朝による独裁体制で、皇族一族や貴族たちが贅沢な生活を送る一方で、国民の大半が困窮状態に陥っていました(*´Д`*)
そのため、ロシア国内には多くの反乱分子の中心人物と積極的に交流することで、彼らとの協力関係を築き上げたのです。
007、ジェームス・ボンドのモデルの1人と言われているシドニー・ライリー
引用:Wikipedia
それだけでなく明石はイギリスの諜報員、シドニー・ライリーに対して、当時ロシアが要塞を築いていた中国・旅順に潜入することを依頼します。
それを承諾したライリーは旅順内に材木会社を設立して、経営者という名目でロシア軍司令部に接近して信頼を得ます。
その後、彼は自ら手に入れたロシア軍の計画に関する情報や要塞の図面を明石に渡したことで、日本軍は旅順要塞攻略を見事成功させることになるのです_φ( ̄ー ̄ )
密偵活動がロシアの戦力低下を招く
1917年2月、抗議デモ
引用:Wikipedia
日露戦争勃発後、スウェーデン・ストックホルムに移った明石は、日本陸軍参謀本部の指示によるロシアに対する工作活動を展開します(⊙_⊙')
ストックホルム在籍時に明石はロシア公使時代に知り合ったロシアの反政府グループに資金や重火器を提供し、デモやストライキを頻発化させることに成功しますが!?
当時のロシア軍は反政府活動を鎮圧するために大量の兵士を投入せざるを得ない状況に陥り、これは結果的に日本軍に対する戦力低下を招くことになったのです。
1917年のペトログラード・ソヴィエト会議
引用:Wikipedia
また日露戦争時にロシアの支配下にあったポーランドやフィンランドの兵士も参加することになったのですが、明石は両民族の社会主義政党や民族主義グループと交渉し、ポーランドとフィンランド内での反戦思想の広まりに一役買っています。
(結果、多くの兵士が日本軍に投降することになった)
ちなみにですが、明石が工作のために使用した費用総額は約100万円で、これは現在の価値で400億円以上となります。
明石はドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世から称賛された
明石が埋葬された台湾・台北市の森林公園にある石碑
引用:Wikipedia
明石が行った一連の工作によってロシアの体制は大きく混乱することになったわけですが、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は
と彼を称賛しています(⊙_⊙')
日露戦争で敗戦したことで、元々弱体化していたロマノフ王朝はさらに力を失うことになり、さらに反政府活動が日常化したことが後のロシア革命に繋がります。
もし、日露戦争の際に明石元次郎がいなければ、日本はロシア帝国に勝利することはできず、また後に樹立されることになるソビエト連邦すらも存在しなかったのかもしれません_φ( ̄ー ̄ )