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チェルノブイリ原発事故はなぜ起きたのか!?ソ連政府は情報を隠蔽...
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1986年4月26日、当時のソ連領内である現在のウクライナで発生したチェルノブイリ原発事故によって、いまだに人が住めない不毛の地となってます(⊙_⊙')

また被害の深さもさることながら、この事故からソ連(ロシア)の怖さを垣間見ることができるので、事故の概要と共に紹介していきたいと思います。

レベル7の世界最悪の原発事故

事故直後のチェルノブイリ原発

1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故は現在も『世界最悪の原発事故』とされていますが、原発事故の深刻さは通常『国際原子力事象評価尺度』でレベル分けされます(⊙_⊙')

これは国際原子力機関(IAEA)が中心となって策定した基準でレベル0〜7までの8段階になっており、チェルノブイリ原発事故はMAXレベルの7に位置づけられています。

(福島第一原発も7)


事故後のチェルノブイリの制御室
引用:GIZMODO

この原発事故は、原子炉の核反応がコントロール不能になった結果、大爆発を起こすわけですが、その発端となるのが最初の保守点検なんです。

チェルノブイリ原発では点検で原子炉の運転を止める機会を利用して、原子炉で異常が発生した際の対処法を探ろうとしていました。

(原子炉での電源喪失というのがこのテストにおける状況設定だった)

当時の原子力発電所では、電源が喪失すると非常用のディーゼル発電機機動までに40秒ほどのタイムラグがあり、チェルノブイリ原発ではこの40秒の間、停止後もわずかに回り続けるタービンによって電気を起こし、原子炉に水を送るポンプを回し続けるテストを行おうとしていたのですが...

原子炉が暴走して大爆発が起きる!

チェルノブイリ原子力発電所(中央奥)の遠景
引用:Wikipedia

26日13時23分4秒にテストが開始され、このテスト自体は成功するものの、その直後に冷却材の温度が急上昇して、蒸気の泡が増え始めるという異常事態が発生(*´Д`*)

そのため運転員は13時24分40秒に緊急停止用のボタンを押すのですが!?

制御棒の設計ミスによって出力が急上昇し、原子炉が暴走し始めてしまうんです。

そして数秒後には核分裂によって生じた放射能を大量に侵みこんだ燃料棒が粉々になり、2度(それ以上あったとも)の大爆発が起こってしまいます。

この大爆発によって1600本以上の圧力管が1本残らず破損し、さらに原子炉の上部も吹き飛ばされ、膨大な量の燃料と黒鉛が粉砕された状態で飛散したのです。


避難を余儀なくされた住民たち

事故後放棄された村
引用:Wikipedia

事故発生時に発電所内部で働いていた職員は444人でしたが、複数の作業員が犠牲となり、原初内の全ての人々が大量被爆しました。

さらに消火に急行してきた消防士や駆けつけた医師・看護師の他、事故収束作業を行なった兵士たちも被爆してしまいます_:(´ཀ`」 ∠):

また原発で働く人々のベッドタウンであった北西5kmに位置するプリピャチ市では、市民全員がキーウへの避難を余儀なくされ、同市の約30km圏内に暮らしていた約9万人の住民らも避難対象となります。

(避難は5月3日から開始され1週間ほどで完了しますが、何万頭もの家畜を連れての避難だったため、思いのほか時間がかかったという背景があります。)

なおソ連政府はこの事故における死○数は33人と発表していますが、長期的には数千人、調査機関によっては長期的に70万人が甲状腺がんなどで死○したとの説も存在します。


ソ連政府は情報を隠蔽!

ウクライナ国立チェルノブイリ博物館に展示されている犬の二殿体奇形標本
引用:Wikipedia

チェルノブイリ原発事故後、ソ連は対外的な情報発信を意図的に遮断して情報隠蔽を図ります(⊙_⊙')

この異変に最初に気づいたのはスウェーデンで、大気中から異常な放射能を検出したため、同国政府はフィンランドとソ連に問い合わせすると!?

当初は否定していたソ連政府ですが、隠しきれなくなり29日に事故発生を認めたのです。

これ以降、チェルノブイリ原発事故の詳しい調査が進み、さらに時間の経過とともに健康被害の実態が明らかになっていきます。


プリピャチ市内
引用:Wikipedia

原発事故発生以降、チェルノブイリ原発から30km圏内は深刻な放射能汚染によって居住ができなくなり、現在も居住地から除外されています。

ただし、近年では現地ツアーが可能になっており、原発内部やプリチャピ市はガイド付きで見学ができるようになっています。


佐藤一男氏の回想

事故により立ち入り禁止措置がなされゴーストタウンになったプリチャピの市民プール
引用:Wikipedia

チェルノブイリ原発事故発生当時、日本原子力研究所の佐藤一男氏は、電力新報社刊行の『回想/チェルノブイリ原発事故』で、事故当時のことを詳しく回想しているのですが、その中で

『この炉の極めて独特な『反応度操作余裕』なる概念については少なくとも報告書本文にはほとんど説明がなかった。したがって、報告書に書いてある運転員の操作がどれほど重要な意味を持っているのかが理解できなかった。さらに、この時日本に届いた報告書には、ソ連が行なった事故経過の解析結果を示すグラフが、どういう加減か欠如していた。(中略)事故の結果、原子炉がどのように破壊されたかについても、ほとんど説明がなかった。要するに、報告書を読んでも、何も分からなかったという感じだったのである。

引用:回想/チェルノブイリ原発事故

と記しています(⊙_⊙')

報告書提出後、ウィーン会議で詳細な報告がされますが、先に示されたレベル7の原発事故の報告書が『何も分からない』というのは恐怖を感じるレベルです(*´Д`*)

また佐藤氏の回想にはソ連の制御棒設計に関して、彼が研究者仲間との会話が再現されています。

ここで論点となったのは制御棒の素材にアルミニウムを使用する点なのですが、アルミニウムは融点が低く、原子炉内部の高温に耐えられない可能性が高いため、本来なら絶対に選択してはならない素材です。

また同氏は

という一言でこの会話の回想を締めくくっています_φ( ̄ー ̄ )


 
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